文化財を未来に伝える 一般財団法人伊豆屋伝八文化振興財団

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不去来庵
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境内のご紹介

本堂について

本堂は、明治30年4月に基礎工事を着手し、同36年10月15日に仏の座を棟上げ、完成したのは大正4年の4月14日であった。その間、日清・日露戦争中の建設には困難を極め、実に18年に渡る大事業となった。
建物は、間口四間半・奥行五間半の土蔵造りで、屋根は三河産三州瓦の二重葺き、寄棟の最高部には青銅の火炎装飾の宝珠を頂き、風に吹かれると美しい音色の風鐸がなる。壁は一尺(約30センチ)厚の漆喰塗り、周囲回廊及び腰には伊豆石の石組が施されている。
外観は京都東山「法然院」の書庫を模して造られ、内部の燈籠・机台等もその写しと思われる。
浄土の世界を彷彿とさせる美しい天女像や格天井、欄間の装飾模様の彫刻は、福田循誘上人自らが、京都・奈良方面を巡り、名のある建造物や調度品を写して造らせたものである。大正4年4月16日の落成式は、六代目伊豆屋伝八(渡邉直道)の一周忌にあたり、社会慈善事業団体「慈無量講」の主催で行われた。
当日は、宗教・宗派を越えて多くの人々が集まり、日清・日露の戦勝記念とともに、戦没者の法要も盛大にとり行われたということである。
このとき、本堂の建立に尽力された福田循誘上人はすでに入寂されていた。

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本堂

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本堂内部



本尊阿弥陀如来像について

本尊阿弥陀如来像は、光格天皇(1771~1840)の御念持仏であり、仙洞御所に安置されていた尊像であった。天皇崩御の後、有栖川宮殿下から鳳誉鸞洲上人に、その後福田行誡上人に伝えられたものである。
幕末から明治初期にかけては世の中が乱れ、当時、徳川家の菩提寺であった芝の増上寺も度々の焼き打ちにあい、その受難の時代に徳川家伝来の仏像を最後まで守り通したのは、福田行誡上人であった。
明治元年「神仏分離令」が発令されると、仏教関係者は不利な状況に置かれ、各地の僧侶達や寺々は廃仏毀釈の迫害を蒙った。民間人で仏教に深く帰依している渡邉家の事を伝え聞き、追われた僧侶の多くがここを訪れたという。明治21年、京都知恩院の管長であった。行誡上人が遷化され、阿弥陀如来像は、弟子の福田循誘上人に護持されることになった。
行誡上人の遺言により、知恩院境内に観世音菩薩像を建立するにあたり、渡邉直道(巍山居士)は建てる場所や浄財の募集について各方面に働きかけ、東奔西走してこの事業を翼賛し、尊像は知恩院の池の中に建立されることになった。また明治24年、知恩院の三門が公売にも及ぶべきところ、一金壱百円を寄付し異国へ流出しかけた三門を取り戻したのである。
こうした種々のご縁と功績とにより明治28年5月、阿弥陀如来像は行誡上人の遺志の通り循誘上人から巍山居士に贈られ、不去来庵の本尊となったのである。



燈籠仏について

武田信玄公が信州善光寺から阿弥陀三尊仏を持ち来り、甲州に善光寺を建立する際、秘かに燈籠内に尊像を安置したことにより「燈籠仏」の名がつけられた。
「一光三尊は秘仏であるが故に、扉は常にお写仏といえども明開することならず、病災害にご利益ある燈籠仏に祈願、信心して、常に御念仏すべし。祈願したことが叶えられるか否かは、燈籠仏の重さ軽さによって知り得る。」と縁起にある。
本堂に残る燈籠仏(善光寺の写し)は、伊佐新次郎に由来する。





本堂扉鏝絵

本堂正面の扉に鏝絵の金剛力士像が刻まれている。作者の森田鶴堂は「伊豆の長八、静岡の太十郎(鶴堂の本名)」と並び称された日本漆喰鏝細工・鏝絵の名工である。この二体の像は、福田循誘上人が下図を描いたもので、鶴堂49才、まさに鏝技の冴えし頃の作である。他に堂宇の左右唐戸上にもアカンサス模様が施されている。
この時の当主、巍山居士とは、鶴堂14才の折、刺青初め代を渡したという縁がある。
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本堂扉鏝絵 金剛力士像
(森田鶴堂作)


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地蔵尊像について

本堂右手にある地蔵尊像は、かねてから地蔵信仰の厚かった巍山居士の御霊を祀る為に大正4年の夏、巍山嗣子、渡邉恭一(霜華居士)によって建立され、巍山居士の分骨が納められている。
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地蔵尊像




供養塔の建立について

巍山居士が福田循誘人より阿弥陀如来像を賜った折、次の三高僧の聖遺物とその御霊を祀ることが約束され、本堂に安置された。
・慈雲尊者の遺鬚
・徳本行者の遺歯
・福田行誡上人の遺骨
平成6年春、本尊を守りこれら三体を怠らず供養して仏法三宝(仏・法・僧)を子孫に伝えるために、本堂右手に供養塔を建立したのである。
阿弥陀如来像や本堂建立に深いご縁のある循誘上人の命日2月27日に供養塔に聖遺物が納められ、法要がとり行われた。なお、平成7年4月27日には知恩院門跡中村康隆猊下を導師に迎え「阿弥陀如来像遷座百周年記念法要」が盛大に行われた。(百周年記念事業の一環として山門と庭園もあわせて整備された。)




「銀水」の井戸

寛永年間(1600年頃)、安倍川が渇水し、付近一帯が水飢饉に見まわれた際、松木家の隠居屋であったこの地に井戸を掘らせた。堀削を指揮したのは、武田の軍師、山本勘助と伝わる事から「勘助井戸」と呼ばれた。
この井戸は、地紙型の石を以って車の歯のように組み合わせる特殊な構法で「末代まで崩れることなし」といわれた造りである。
駿府城内の井戸が「金水」と呼ばれたのに対して、この井戸は「銀水」、別に「長命水」ともいわれた。
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銀水の井戸




浄土庭園

浄土園



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